笹沢左保 プロフィール
⇒作家になるまで
昭和33年、笹沢左保が28歳のころ、郵政省東京地方簡易保険局に勤務していた。労働組合の執行委員なども務めていた左保は、ある日、突然の交通事故に遭い、全治八か月の重傷を負う。普通ならば命を落としていてもおかしくないほどの重体であったが、「死んでたまるか」という強い意志もあって九死に一生を得た。
左保は、立つこともできない入院生活の中で、友人から言われた「小説を書いてみたらどうだい。詩人である父上の血を引いているんだから。しかし、そのためには時間を持つことだよ」という言葉を思い出す。
入院中の時間を利用して推理小説を乱読し、やがて本格的に執筆活動を始めることとなった。

⇒執筆活動への姿勢
執筆活動を行う際、笹沢左保は俯せの姿勢でペンを走らせていた。デビュー前、交通事故で入院していたときの執筆姿勢がそのまま習慣となり、執筆机も腹ばいに近い姿勢になるよう高く調整されていたという。
常時月産1,000枚以上、最高で月産1,500枚もの原稿を書いた多筆な作家でありながら、手書き原稿にはほとんど直しがなく、活字のように整った文字を書いた。
50枚なら50枚の最後の行の最後の一マスに、ぴたりと収まらなければ気が済まなかったという。
原稿の締切が迫り、徹夜が三日続いた際には、眠らないために違い棚を机代わりにして立ったまま執筆したことから、「笹沢左保は立って執筆する」という伝説も生まれた。
67歳の当時でも、一日12時間ペンを握っていたという。愛用していたペンは女性用の細いもので、名前入りの原稿用紙を作るのは恥ずかしいという理由から、コクヨの400字詰め原稿用紙を愛用していた。

⇒木枯らし紋次郎の産みの親
笹沢左保は、『木枯し紋次郎』を執筆したとき、次のように語っている。
「世の中、やります、やりますと言って何にもやらない人間が多すぎるから、自分は関わらないと言いながら関わっていく人間を書いたんだ。」
また、紋次郎について、
「誰も信じないから、誰かに信じられたくもない。ひとり、わが道を行くのが男のニヒリズム」
と語っている。
そこには、笹沢左保作品の根底に流れる、人間の孤独や生き方に対する独自の思想が感じられる。

⇒青年塾
笹沢左保が開塾した青年塾では、次のような基本的な考え方が掲げられていた。
『現状のまま放置して、日本国(日本人)を重病にさせてしまってはならない』
『あたりまえのことが、あたりまえのこととして通用するような世の中にしなければならない』
『人間として生きるならば、自分の爪跡を地味に残そうという気持にならなければならない』
この思想を全国に伝えるため、年間最高200回以上もの講演をこなし、全国で青少年非行化防止の運動が行われ始めた。
笹沢左保の思想の種は、こうした活動を通じて日本各地へと広がっていった。
⇒晩年、佐賀へ
57歳にして東京を離れ、佐賀へ移り住んだ笹沢左保。
その理由について、次のように語っている。
「これまでの人生の大半、55年間を東京と横浜で過ごしている。そのせいか、子どものころから故郷とか田舎とかいう言葉に憧れていた。少年時代から青年時代にかけて、ぼくの頭の中には想像による故郷が、次第にはっきりと描き出されるようになる。ぼくのまぼろしのふるさとは完全にイメージ化された。ところが、ぼくはついにその『まぼろしのふるさと』を見つけたのである。それが佐賀県佐賀郡富士町周辺であった。
また都会にいると人生、作品とも惰性と感じる時があった。健康面、精神面についても自己革命する時期だと思い決断した。」
佐賀のすばらしさを語りながら、笹沢左保は佐賀での暮らしを始めた。
佐賀に建てた私邸には3階に書斎と応接間があり、ここで執筆を続けていた。
応接間の絨毯は赤、椅子は黒。『木枯し紋次郎』の風景には夕日や暗闇がついてまわり、黒い合羽に錆朱色の鞘の愛刀も、いわば赤と黒の配色だった。この赤と黒は、笹沢左保が好んだ色でもあったようだ。
⇒馬に対する想い
馬の置物を収集していた笹沢左保は、そのコレクションに対する愛情を次のように語っている。
「わが家には現在、250頭の馬がいる。もちろん、本物の馬ではない。わが家の応接間のケースに納められている馬の置物である。大きさ、容姿、顔、色、鉄とか銀とかの素材、それに国籍、贈り主と実に多彩な馬たちだ。
馬とは不思議なもので、たとえ生きていない置物だろうと毎日接しているうちに、馬の表情をずっと眺めていると、実は生きているのではないかという気がしてくる。人間が寝静まるのを待って250頭全部がケースを抜け出し、生きた馬としての活動を始める。そして夜明けとともに一斉にケースの中に引き揚げた馬たちは、それぞれ所定の位置に戻って知らん顔でいる。
真夜中の応接間を平原や丘陵にして、250頭の馬が疾走したら、さぞかし壮観だろうと想像するだけで楽しい。
更にもうひとつ、この250頭の馬たちは、数々のエピソードを背負っているという点でも、わが人生に大いなる慰めを与えてくれる。この馬を買い求めた外国ではこうしたことがあった。この馬の贈り主からはこんな失敗談を聞かされた、といった多くの思い出が秘められているからだ。
ちなみに、なぜ馬の置物を収集しているか、という質問をしばしば受ける。その答えは、単純で、ぼくが午年生まれだからである。
ぼくの本名は、勝と書いて、まさると読む。それは午年生まれなので、強くて縁起がいい勝馬にあやかりたいと、勝にしたのだという。
すでに遠い思い出になるが『吾輩は猫である』を読んだ少年のころ、『わが輩は、馬である』とよく威張ったことを記憶している。」
⇒笹沢左保とお酒
酒とたばこをこよなく愛した笹沢左保。
1997年にドラマ「取調室」のロケ現場を訪ねた際には、「どうせいつかは死ぬんだから、好きなものは控えない主義だね」と笑い、ウイスキーを2日で1本のペースで飲んでいることを明かした。

⇒愛と恋
笹沢左保は、恋と愛について次のように語っている。
「恋とは報われない犠牲を払うこと。報われるということを期待しない犠牲ということ」
16歳のときから独立し、ヌカを食べながら頑張り通したという笹沢左保だけに、その言葉には、人生に対する真摯な姿勢が表れている。
また、愛については、
「愛の証はお互いの誠意しかない。そして、人間と人間を支え合うのは、その誠意で立証された『愛』だ」
と語っている。
⇒父ついて
笹沢左保は、自身の父について次のように語っている。
「父は87歳まで生きた。晩年になっても少しも変わらず、自分の世界に生きた男だった。」
また、自身については、
「だが、かく言う僕もこれまで377冊の作品を必死で書いてきた。」
と記している。
父の生き方を振り返る言葉からは、作家としてひたすら書き続けた笹沢左保自身の生き方もうかがうことができる。
⇒笹沢左保の美学
68歳になった笹沢左保が改めてかみしめていたのは、「きれいに死ぬことの難しさ」であり、「人間とは、どうしようもなく他人にかかわりを持たざるを得ないもの」という思いであったようだ。
これは一見、紋次郎の決め台詞と矛盾するようにも思える。しかし、笹沢左保は紋次郎の「かかわりない」という言葉について、
「『かかわりない』というのは、無宿人はいちいちかかわっていたら命が持たないという意味で、実は臆病とも言える”生”への執着なんですね」
と語っている。
年を経て「かかわる」ことが多くなった紋次郎は、ある意味で、死を以前より忌避しなくなっていた。
六度の手術を乗り越え、「がんも身の内」と語った笹沢左保。
「死を恐れず、なお生き続ける」という心境は、晩年の紋次郎の生き方にも重なっていく。

⇒笹沢左保という作家
小説を生涯にわたり書き続け、木枯し紋次郎という、時代を超えて愛される人物を生み出した笹沢左保。
その一方で、酒や馬の置物を愛し、故郷を求めて佐賀へ移り住み、人との関わりや愛について考え続けた一人の人間でもあった。
作品に描かれた孤独や哀しみ、愛や人間の弱さは、笹沢左保自身の生き方や人生観とも深く結びついている。
「人間とは、どうしようもなく他人にかかわりを持たざるを得ないもの」。
その言葉のように、人との関わりを描き続けた笹沢左保自身もまた、数多くの人や出来事と向き合いながら、ひたすら書き続けた。
その作品と生き方は、今もなお、読む人の心に残り続けている。

最後の流行作家 笹沢左保